第3回「ルールについて考える」ルールは、相手を刺すための武器のように見えてしまうことがある。
ルールとは何だろう。
競技を縛るものなのか。自由を奪うものなのか。
あるいは、勝敗を決めるためだけに存在する、冷たい線引きなのか。
フットゴルフを続ける中で、私は何度もそのことを考えてきた。
どんなスポーツでも、最初からルールブックを熟読して始める人は、そう多くないと思う。少なくとも、私はそうではなかった。
まずはやってみる。やりながら覚える。わからないことは、その都度聞く。たいていの人は、そんなふうに競技に入っていくのではないだろうか。
ましてフットゴルフは、まだ成熟の途中にあるスポーツだ。経験者が初心者にルールやマナーを教えていくことは、ごく自然な流れだと思う。
審判がいる競技と、いない競技
ルールの身につき方には、競技ごとの違いがある。
審判がいるスポーツでは、反則をすればその場で不利益が生まれる。だから選手は、反則をしないために覚える。覚えなければ勝負にならないし、ときには仲間にも迷惑がかかる。
フットゴルフは審判が常にいる競技ではない。そのため、多くの場面で自らの判断で罰を認める必要がある。もちろん、同組の選手同士で確認しながら進行していくが、曖昧なケースはそのまま流れてしまうことも少なくない。
時には、自分に都合の良い解釈で判断してしまう場面もあるだろう。そして結果として、ルールを正確に把握しないままプレーを続けている選手が一定数いるのも、フットゴルフの現状のひとつではないかと感じている。
私は、ルールをどう覚えてきたか
私自身、プレー中に疑問に思ったことは、そのままにしてこなかった。ルールブックを読み返し、他の選手と議論しながら、少しずつ身につけてきた。
だから今、フットゴルフ界の中では、比較的ルールを知っている方だという自負はある。
その一方で、陰ではこんなふうに言われているらしい。
「あいつと同じ組になると、細かいことを言われるから鬱陶しい」と。
正直に言えば、その言葉がまったく刺さらないわけではない。
でも、まだ経験の浅い選手がルール上のミスをしていたとしても、私はそれで罰を取ったことはない。本当は、見逃すこと自体が正しいことではないのかもしれない。それでも、指摘することが相手のためになると信じて、言葉を選びながら伝えてきた。
もっと言えば、指摘することによって、私自身のメンタルも削られている。空気が重くなることもあるし、自分が悪者になったように感じることもある。
それでも、なぜ言うのか。
その選手に、ルールを覚えてほしいからだ。
ただ勝負の場でミスを探したいわけではない。誰かを責めたいわけでもない。これから先、その人が胸を張ってプレーできるようになってほしい。その思いがあるから、私は言う。
罰を取るより、先に伝える
以前、国際大会で国別対抗のマッチプレーを戦ったことがある。1ホールごとに星を取り合っていく、緊張感の高いフォーマットだった。
その中で、相手選手が間違えた位置からボールを蹴ろうとしている場面があった。そのまま蹴れば、罰を受ける状態だった。
私は、蹴る前にその選手へ伝えた。
仲間からは、「黙っていれば罰を取れたのに、なぜ言ったんだ」と非難された。
たしかに、チームとしてポイントを取りにいくなら、その考え方も理解はできる。そこを否定するつもりはない。勝負の世界には、そういう価値観もある。
でも、時が経って自分の中で整理してみても、私はやはり、あの場面でも同じように伝えると思う。
罰を与えて得る1点よりも、正しい条件の中で奪い取る1点の方が、
私にとっては価値がある。
それが正解かどうかはわからない。チームとして見れば、甘いのかもしれない。
それでも私は、罰の前にまず伝える。そのうえで勝負をしたい。たぶんそれが、私が私でいるために必要なことなのだと思う。
それはもしかすると、私の美学と呼べるものなのかもしれない。
ルールは、矛ではなく盾である
ルールを知っていると、誰かのミスが見えるようになる。
だからこそ、ときどきルールは、相手を刺すための武器のように見えてしまうことがある。
でも私は、そうは思わない。
ルールを知ることは、矛ではなく盾である。
相手に罰を与えるために知るのではない。自分を守り、余計な不安を減らし、プレーに専念するための防具として知るのだと思う。
どこまでが認められて、どこからが違反なのか。それを知っているだけで、競技の中で迷いが減る。無用なトラブルを避けられる。指摘されたときにも、感情ではなくルールで対話できる。
ルールは、プレーを窮屈にするためにあるのではない。むしろ、競技をフェアにし、選手を安心させ、勝負をクリアにするためにある。
Dear Wonderful Footgolf
このスポーツには、まだ語るべき物語がある。
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